2007年5月19日

力がないから未来が見えない。

最近考え事が多いわけで。

国語科のH先生の論文を読んだ。
H先生はいつも熱くしゃべってくれる。学園教師の中でも哲学者的な先生。
先生の論文は、英語と日本語両方で書かれていた。英語で書いて、その後に日本語に訳したもんだから、英語の方が正確な意味を宿している。とはいえ、自分は日本語で読んだ。自分にはまだ、英語での理解よりも日本語での理解の方が、正確で深くあれるから。

ふと思った。
それは哲学的なことでもなんでもなくて。
自分、そして自分の周りを見渡してみて、H先生くらい色々なことを思索し、深くまで思索が達している人は何人かいる。学年に1人ってほど少ないわけではない。その卒業生、とくに思想家達のなかからたまたま、先生は教諭として返ってきた。そのひとりの先生が、現役の学園生にいい刺激を与えている。我々が書くブログを基にして起こる各種論争も、先生の思想に影響されることが大きい。ただ、自分の中学生時代、卒業実行委員で感じた矛盾や限界、先生の授業で先生もそう思っていることが分かると安心する。当時は、自分は異端の方なのか、と考えることもあったが、自分の思索に自身を持てるようになった。

そして、他にも思ったこと。先生の論文を読むには、教養が必要だった。もちろんそれは知識ではなく、こういう類のこういう深みのこういう次元のことを考えたことがあるか、そういうこと。もちろんこの考えたは、全部自分で考えたことでもよしに、読書を通し筆者の考えという車に運ばれながら考えたことでもよし、ただ、考えたことがあるか。時々こういう声を耳にする。
「H先生の授業は、眠い」「結局何が言いたいのか分からない」
非常に残念に思えてならない。メッセージを受け取る力のない不幸。よく「勉学や読書に励んで力をつける」ことが大切とか言うが、この「力をつける」というのは他人の、もちろんこれは先代であろうが同じことだが、メッセージを受け取る力のことだ。それは具体的には、教養かもしれないし、感性かもしれないし、あるいは知識かもしれない。それがなんであろうと、物事の本質を見抜けない、その重要性を理解できないというのは不幸なことであるがゆえに、その力は大事である。

昨日も書いたかもしれない。同じメッセージを受け取っても、それが各個人の「何」になるかは人それぞれ。それで何を思うかも、何を血肉として受け取るのかさえも。
それで人の本質を見抜く力、未来を見る力、人を見る力に差が出てきてしまっているのは、中庭を見る限り、事実。人によって、今直面している未来から何を読み取るかが全然違うのも、事実。そうすれば当然、その時を察知できるかも、その後の世界をどう描くかも、全然違う。

すこし余談になるが、この「メッセージを受け取る力」を大きくするものは何か。自分の結論は「読書」である。自分の危惧する、またこいつ大丈夫かと思う、また自分が嫌悪感を抱く人間は決まってルソーを読んだことがない。デューイを、また松尾芭蕉を。

話を戻すが、昨日の話題に関連して、未来を考えるとか、その時を意識するとか、それは一見「その人の態度」であるかのように見える。その人が考えたくないから、考えない。人間の本質を、社会の本質を探究しようとしないから、見抜けない。自分もそうなのかと思っていた。
しかし、それは違う、と今の自分は断言するだろう。
今まで色々な人を見てきた。同年代も大人も、日本人も外国の人も。仏教徒もイスラム教徒も。
人は未来を見抜こうとしないから、未来を見抜けない。それもあるが、その前に、人は未来を見抜く力がないから、見抜こうとしない、見抜けない。そう思う。する力がないから、しようとしないのである。

だから、創立者は言う。「徹して良書を読め」「今は力をつけろ」
学園生は、みんなこのメッセージを受け取っていきたい。

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