2006年12月8日

今、16の冬

あと98日

今、徒然草の原典読破に挑んでいます。
岩波文庫の「新訂 徒然草」1928年第1版発行。
やっぱり面白いです。随想の原典です。日本における。
ヨーロッパはモンテーニュの「随想記」(エセー)ですよね。それも読んでみたいものです。
今自分が書いているブログ、これらが源流となってるんですよね。そう考えると、古典ほど面白いものはない。古典ほど気が満たされるものはない。

早速ですが、今日印象に残った一節を引用しますね。

第百十段より引用

双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。
道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。

引用終了

負けじ魂、ここにもあったか!どの時代も、どこにおいても、大事なことは変わりませんね。700年以上もたっても、人間の進化から見れば全然長くないんでしょうね。それくらいじゃ人の性格は変わらない。

徒然草は随想集ですから、あまら兼好は深刻に考えずにパッパ書いたものなんでしょうね。そうすると感動するのは、兼好のやり方は、現代においても日本人に愛され続けている。日記、ブログという形において。日本人が徒然草の一節を教科書等で習ったとき、気に入る文があったりするのも、今でも日本人にも愛され続けている。これが古典と言うものでしょうか。


あと、この間ブログを書いてから五日、何の学問を自分は学びたいのか、見えてきました。
人間学。
こういうのかは知らないけど、関係ある領域は、、
社会心理学、心理学、臨床心理学、社会学(メディア)、発達心理学、社会関係学、、、、とか

教育学とかも入るかもしれませんね。要するに、ある性格の人がいる。もしくは、こういうことする人がいる。それは何でそうしたのか、もしくは、何がそうさせているのか、何によってこのような人格が形成されていくのか。
そういうことです。

これは、ここ連日の学校での出来事が大きく関連しています。自分から見たらよくわからない、もしくは哀れみの念さえ示すような行為、考え方、性格等を持っている人っていますよね。本日テスト中におあつらいむきなほど音質も音量もよく放屁なされたK君、また、とてものんびりマイペース、でもそれがたまにキズなさっきのとは違うK君。かれらを見ていて、ふと、そのような学問への関心が高まってきました。いま、そのような興味関心を満たす学問は何なのか、また、その学問の世界一はどこの大学なのか、調べています。やりたい学問がすこしでも見つかった以上、本格的に目標大学・希望大学が他のに移り、決まるかもしれませんね。
日本でもいいかもしれませんが、できれば自分と違う文化のバックボーンを持った先生とともに、研究したいです。そうした方が、幅広い、ワールドワイドのレベルにおいて、自分の修めた学問を世界のために活かせると思うからです。現実問題として、このような分野であれば、国連であろうが企業であろうが国であろうが組織であろうが、需要はあると思います。時代が時代ですからね。武力が腕を振るう時代は終わりました。

あと、一応自分の価値観を今から言っておきます。
根本にあるのは、「人間は楽しむために生まれた」という価値観。これは揺らぎません。
次にあるのは、「学問のたしなみは、人間の喜びの中で少なくとも上位に位置する」ということです。
ですが、現実社会でとる基本スタンスは、「能力主義」「実力主義」です。
これまでもそうですが、これからも自分はこれらを基本に色々な行動やら発言やらするので、理解しておいてください。
結構、大きくいっているだけで、文字からは語弊が沢山生じると思いますけど、詳しく聞いてみたかったり知りたかったりしたらいってください。いつでも話しますよw

最近、我ながら記事の内容が堅い気もします。ですけど、まぁ、本来の目的が「思索の記録庫」なんで、そういう意味ではいいブログ活用できてるかなぁとおもいます。

明日は横浜中区で行われるディベートの大会を見に行く予定です。最近テストばっかりなんで、楽しんでこようと思いますww



追記 夜9時ごろ
先ほどもチラッと書きましたが、自分の興味ある学問が見つかりました。多分社会心理学が一番近いのではないかと思います。ただ、やはり自分のイメージする学問は多くの領域にかぶっている面があるので、念入りに世界の大学の学部を探す必要がありそうです。
そこで培った学問は様々な領域で活用できそうです。教育、対話、後輩育成・人材育成、人事、交渉などなど。よく考えたら、後輩育成も人事も、中学の頃から自分が委員会とかでよくやって好きで得意なことでしたね。「好きこそものの上手なれ」ですね

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

随想。
ぱっぱと書いたかどうかは別として、随想的な文章のように、その日の出来事など折々の事柄の感想を書くことは、日本人に馴染み深いのかもしれません。ブログの流行もきっと、こういうところに深い因があるんでしょうね。

人間学。興味のある領域。この記事を読んだ感じだと、心理学や社会学、人間の本質を広く深く抉るような学問。
周りを見渡せば人、人、人、みんな違う性格。そんな中で、"人"の本質的な部分、"複数の人"の関わりなど、社会的な部分、そういう方面に興味を持ち、学問として学ぼうとするのは、良いことだと思います。

違う文化をバックボーンに持った先生というのも、ナイスアイディアですね。違うものが触れ合うことで、交流、流れがおこり、渦ができて、新しく瑞々しいことが生まれてくると思います。

価値観が明確で素晴らしい。
僕だと、自分の中に色んな心が主導権を争ってるから、価値観もなかなか定まらず不安定的。明確なのは信念が定まっている事だと思うので、貫いてください。

haamey さんのコメント...

価値観は理論か?心か?本能か?情動か?
と言う問題について。
このコメントに対してと君のブログのコメントに対して、まとめてコメントしますね。

自分の結論。価値観を決めるのは、やはり外部からの影響であると判断している。しかし、それは本当に心、生命の奥深くに息づいている。心底も心底、どう見たって外部から入ってきたものには見えにくい。
人の価値観、ものの見方には、小さい頃に見、聞き、経験してきたこと、また、大きくなてからも自分にとって大きな事が起こればそれが価値観に関係するかもしれない。
なので、すぐにころころ変わるような考え方は価値観とは言いづらい。
ただ、人が何かを意思決定するとき、何らかの根本に基本的な考え方があるのは事実。「暴力を本能的に嫌う」これも、小さい頃、もしくは学園で徹底的にしみこまされて形成されてきた価値観でしょう。ただ、外部からの影響がどこにどのくらいあるのかは人の性質によると思います。性質は半分は外部要因であるけれども、半分は遺伝だといわれてますがね。でもその差なんて対した差じゃあありません。

問題は、価値観は、理論なのか、心なのか。
自分は上のような価値観の形成過程から、本能ではないにせよ、その次くらいに本能に近いもの、なんというのでしょうか、限りなく理論からは遠いと思います。

そうすると、虚飾と言うものは、価値観の上の、事象に対する意見、その上の虚飾であると思います。虚飾にすこし自分の価値観次第でどのような虚飾が飾られるか、微々たる影響もあるとは思いますが、虚飾は自分の価値観が世に出て、もしくは実際の物事に当たるにおいて、都合が悪い時に飾るものではないかと思います。

つまり、虚飾を飾る人間の反対に、自分の価値観をさらけ出し、自分の価値観の趣くままに決定する人間がいるということでしょうか。ただ、その価値観が本当の価値観でなくて虚飾が混じっている場合もなきにしろあらずですが。

ただ、忘れてはならないのは、価値観の中にもっと深くに、いわゆる本能、人間ラシサがもういっこありますけどね。

匿名 さんのコメント...

会場がこちらに移ったようなので、こちらでコメントさせていただきます。

自分の考えを明確に言うと、どこまでが心で、何処までが理性(理論)かなんて決められません。価値観もそういうものでしょう。だから、あなたの言うように、本能に近い部分だと思います。
理論もある意味で言えば、心からの派生とも考えられるし、心(世界)を割り切り易く表現しただけともいえるかもしれない。
たとえば、「1+1=2」という式があったとしても、何故「1+1」は「2」と等しいのかなんて厳密には証明できない。ただ、人は1と1を足せば2になるということを、感覚的に思うから、それは正しい。「1+1=2」と表現したほうが、自分たちの感覚と合うし、世界を表現し易い。だから、正しいとされる。

僕がなぜ、散文で感覚の話から始めたかというと、世界を人間が感じたときに、それと心が反応して、それが感情なり、考えとなって、価値観などを形成していくんだと、僕は感じたからです。

もっとわかりやすい例を出すと、「人を何故殺してはいけないのか」という命題は理論で証明できない。でも、多くの人は人を殺しちゃいけないと思ってる。感じている。だから人を殺しちゃいけない。
「死ぬのは嫌だ」とか「嫌な思いを他人にもさせたくない」などの生きている中で、世界を感じている中で、自分の中から湧き上がってきた心。それが「命は大切だ」と言う価値観につながる。そう僕は考えています。

虚飾についてですが、虚飾も心だと思います。
例えば、旅行に行ったとき、心の底で「普通の景色じゃん」と考えていても、友人の前だと「すっごくキレイだね」となった時、これは虚飾と言えると思います。
でも、景色云云よりも友達に合わせるということが、その人の中で優位な価値観(心)になってるって言うことだと思います。

そして、僕が散文で言いたかったのは、そのような虚飾の全てを無くす必要は無くて、本当に大切なのは、虚飾を取り去った先に、どういう心(価値観ともいえるでしょう)を持っているのかということです。
そういうものは、湧き出てくるような感じで創造されて、表面的な部分にも影響していくんだと思うんです。
もっと広げて言えば、栄誉とか財産とか地位などは、有ったとしても、無かったとしても、心や価値観に何を持っているかということもいえると思います。

上手く全体を表現できないまま結論まで来たんですが、もっと深められればと思います。

haamey さんのコメント...

一+一は二
人を殺したらいけない
殴られた人は痛そう

これらの感覚は、いきているうちに生命のそこから呼び覚ませるものなのだと思います。
人間が細胞でできて、細胞も一つのものからできていない以上、本能的に数の論理は分かるはずです。遺伝子にも、人間の感じる感覚、細胞が死ぬ時には痛い、痛いのは嫌だという感覚は下からあるものでしょう。これらの次元では価値観よりも深い世界。

生まれ、小さい頃人間はもともと持っていた沢山の能力や感覚のうち、これらかの人生でいらないであろう物を捨てていきます。そのおかげで、どの世界、どの国、どの環境に生まれても対応できるんですが、そのため、生まれてから小さいうちに経験したことが、人間はこれからの人生でも必要なことだと本能的に理解します。そして、その考え方等を身につけていく。だから、自分はそのような段階に形成されたものの見方を価値観と呼んでいます。

話は変わって、人はその内部の生命の境涯や生命状態によって、目に移る世界、耳に入る世界は全く別なものになるといいます。誰一人として同じものを見て同じように見ている人はいないとさえ言われています。
そこからくる考え方の違いも価値観の違いとして現れてくるのではないでしょうか?
例えば、自分はK駅のホームにぶら下がっている一つの看板に、面白さを見出します。また別の人は、雨水の水溜りに当たる瞬間の波紋に興味を示します。またある人は、T駅の学校の生徒の改札を出る流れを見ていとおかしな感情を抱きます。
これらの違いから、「何が面白いものなのか」「何が大切なものなのか」「何が物事の本質なのか」これらの価値観にも差が出てきます。自分は人に世界の本質を見出し、ある人は物理的真理に世界の本質を見、またある人は大自然に見出す。

また、これは直線的な問題として見て欲しいのですが、同じものを見ても沢山のことが見える人、見た飯しか見えない人、色々いますよね。これらも価値観等に関係あるのでしょうか?自分の結論としては、ものの見え方の多用さが、多様な価値観の理解につながっているのではないか?ということです。

匿名 さんのコメント...

同感です。
多様な感覚が多様な価値観へ。というのは、正しいと思います。

小さい頃に持っていたものを、だんだん塞いで言ってしまう。そうかもしれません。敏感だと、色々なことを感じてしまって、不安定であったりして、ますます、複雑な感情を形成したりするのかもしれません。傷つかないようにするために、人はある程度、鈍感になってゆくのかもしれない。
芸術などの道を選ぶひとには、敏感な方が多いのかもしれませんね。敏感で人より多くのことを感じても、それを耐えうる強い心が必要だと思います。

見ているものの違い。
僕もそう考えます。一人一人というより、一瞬一瞬違うのではないでしょうか。心は揺れ動くのだから当然だと思います。しかもそれ以前に、生理学的にも分かっていることだと思います。

周りに何があったか。そしてどういうものが見えるか。それらから、価値観が生まれてくると言うのには納得できます。
あと、それらが生まれる時にもっと深い部分に触れてくるのではないでしょうか。
見た触れた対象をかりに、同じ環境でまったく同じように見えたとしても、それによって、生まれる感情というのは違ってくると思うのです。それは、過去に何か原因があるすると、考え易いのですが、それが、深層心理というか、人間のより本質なところ、(これは想像に過ぎないかもしれないんですが)宇宙全体であったり、神であったり、とする部分の影響を少なからず受けているのではないでしょうか。

僕の場合は、本質は「善」「悪」だと考えています。性悪説も性善説もありますが、どちらかということは無いと思います。あくまで、人の心は現実も戦場。
もうひとつ「生」「死」。
世界も僕も生死のリズム。善悪よりもこちらが本質かもしれない。
ここまで来ると、哲学の分野も飛び越してしまってますかね・・・^^;